第三章

芸術論とひとりごと

絵を描くということは

さんざん掘り尽くされた鉱山に、一丁当ててやるぞと勇ましく出かけて行く様なものです。

 

絵と絵の中の絵

私が絵と言った場合は物体としての絵を指しますが、絵の中の絵と言った場合には
絵の内容をさしています。
なので、内容のない絵を目にしたら
「絵が入っていない」とつぶやいたりします。

ちなみに写真家は内容の無い写真を「なにも写っていない」
なんて言い方をするそうです。

 

正確無比なものさし

未だ見ぬ全く新しい価値を捜し求めているのですから、
正しい制作の道筋なんてものはありません。
制作の中で唯一頼りになるものは、『違う(こうではない)』という感覚です。
上手く行っているはずでも、『違う』 が浮かんだらもういけません。
これだ!と思える画面には到達しないのです。

いつの日か、
「僕はこれを描く為に生まれて来て、今ここに存在しているんだ」
と思える時が来る様に制作し続けています。

 

絵が見える速度、伝わる速度

絵は他の物体と同じ様に光の速度で目までやってきます。

肝要なのは絵の中の絵の部分が見る人の脳に伝わる速度が
それよりも速くなければならないと言うことです。

ああ、何が描いてあると感じるよりも先に絵の中の絵(美で構成された)が
第一撃を与えていなければならないのです。

私はその速度をどれだけ速く出来るかと云う事を大切にしながら制作しています。

 

絵の完成

サインを入れた画面がそこにあるとして、絵は完全に完成した訳ではありません。
もう一つの完成が見る人々の頭の中に発生します。
私に出来るのはその一瞬に特別な感じを発生させることだけです。

その為には絵の中の絵が伝わる速度が速くなければならないのです。

一枚の絵を前にして

例えば一枚の画面の中に猫と花が描いてあったとすると、
猫が好きな人は絵の中の猫の部分に意識が強く向きます。
また同様に花の方が好きな人は花の部分に注意が向きます。

何が描いてある絵ですか?と問われると
前者は猫の絵、後者は花の絵と答るでしょう。

見る人の数だけ完成した絵があるのです。

 

便と不便

人間の脳は何なのかわからないという状態を嫌います。
同時に何であるか記憶との照合を済ませたものは、
それ以上見ようと(観察しようと)しないものです。

これは日常生活を楽にしている機能でもあるのですが
絵を鑑賞する場合の妨げになる要素でもあります。

 

都会とジャングル

人間の脳に押し寄せる情報は莫大です。
それぞれを毎回初めて見る眼で見ていたのでは脳はオーバーヒートしてしまいます。

当てはめてそれ以上は考えない、
それで済んでしまう傾向が強くなっているのが都会です。

場所を変え未開のジャングルに突然たった一人、と言う様な状況では押し寄せる情報に
必死で対処しなければ生命に関わります。

云うなれば絵は【全くの都会】と【全くの未開の地】

その丁度まんなかあたりにあって
脳のバランスを取り戻してくれるものなのかもしれません。

しかもうまくすれば安全で美。

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