蝉しぐれの座禅会
言葉のスケッチ
5年前までは海まで走ったりしていたのに
ここ数年はとんと動かぬまま一日中アトリエにいます。
物言わぬ画面が相手なので口を開くことも少なく、
私の毎日は細と猫だけが外界とつながる窓口と言った気さえします。
そんな按配なので仏教修行の何年間も口を利かないというのも
なんとなく出来そうな気さえする今日この頃です。
さて、何でそんなことを考えたかは、
夏近い暑さで子供のころ体験させてもらった座禅会を思い出したからだと思います。
夏休みの午前中、週に1回くらいのペースで公民館に座布団をもって通ったものです。
九州の夏は、午前中から一体何匹が鳴いているのかわからない
音の切れ目の無いクマゼミの大合唱で
こども達は座布団を折って尻に敷き30分ばかり座禅を組みます。
目の前1m位の畳の目を見るでもなく、見ないでもなく、教わった通りにしていると
袈裟姿の老師が警策でピシリとやってくれる、そんな案内で過ごす時間から
何も考えない時間の有意義を学ばせてもらった気がします。
子供だって忙しいんです、午前中の虫取りではどこの雑木林にクワガタがいるかとか
午後一番の海では入り江のどこで泳ぐかも予定しておかないといけません。
ただぼーっとするだけとは違った「何も考えないことをする」時間は特別でした。
子供も大人も変わらず忙しさに追われて過ごしていますね。
全宇宙を半分に分けようと考えたとき一つの境目は、自分の内側 対 外側でしょう。
否、自分の命が終えれば宇宙は無くなることを考えれば
むしろ自分の内側の方が広いのかもしれません。
そこに目を向ける時間の作り方は今も大切にしています。